何故生きているのかに対して、死んでいないからというのは使い古された表現でありあまりにも消極的である。
生きているとは何だろう?生物として存在している?血が通っている?社会的活動を行っている?他者と触れ合っている?
アリストテレスは人間は社会的動物であると定義した。
この考え方はその他の動物との距離が近かった古代の人間ならではの発想であり文明を築き上げる初期段階たるギリシア人の感想と思う。
だからこそ野蛮と文明を区別したギリシア人の感覚は現代に繋がる大事なものだ。
社会を作る、原語ではポリスだったと思うが集団と言ってもいい。彼の時代は定住したポリスと遊牧民が入り混じっていただろう。
その中で定住して社会を築くことが人間であると考えたのだろう。
パスカルは人間は考える葦であると言った。
パスカルは17世紀フランスの人間なのでより近い時代、場所の人間だといえる。
人間の生物的な能力葦のようにすぐ折れるほど低いが、思考の一点において最強と考えたわけだ。
思考する能力が強いのは動物界でも同じで、思考力を持つこと人類は生存競争を勝った。
本能で集団を作る生物は多いが、そこに思考と伝達を持つ生物は少ない。
思考と伝達で集団を作ると、役割分担が可能になる。それはすなわち指導者の存在を生む。
ハイデッガーは自分と他者の存在に目をつけた。
ここまでくると社会的生物であるというのは前提にあるし、人間は社会でしか生存していない。
では他人と自分の違いは何か?隣に座った人との違いとは?
少し脱線したが、生きる意味を見つけられた人間は少ない。殆どは日銭を稼ぐために生きている。
そこに明日の飯のため狩りをする動物との違いはあるのだろうか?
金を稼ぐのは本能ではなかったはずだが、現代人には食事を得るために働くのは金を稼ぐのと同義だ。
日銭を稼ぎ、飯と少しの贅沢をして諸々の固定費を支払う。たまに遊びにいって楽しむ。
これは社会的なのだろうか?考えているのだろうか?
生きるためには期待が必要である。子供の成長や好きな映画の新作、ソシャゲの更新でも構わない。
翻って私に大きな期待が持てるものがあるだろうか?
現在働いている業界は寡占なので潰れる心配は少ないだろう。しかし国自体に輝かしい未来があるとは思えない。
このたとえようのない閉塞感が覆っている以上は今後も変わらないだろう。
人類の99.9%はフリーライダーだ。何かをしようという人間はほんの一握り。
意外と言ってみるとやってくれたりする。波風を立てたくない人ばかりだから。
ならば自分から言ってやらせるべき。
つらつらと書いたが、結局ここに行き着くんだろうなぁと最近思う。
昔から安っぽい歌や映画の題材にもあるじゃない、自分を変えれば世界が変わる。
そんなことを思いながら今日も仕事をする。日銭を稼ぐために。